骨まがりの考え

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嫁にモテたい男のブログ

楽する日本語と楽する日本人

ハキハキ話すのって疲れるよね

突然だが私は絶望的に活舌が悪い。小さいころからモゴモゴしゃべると親に注意され続けてきた。私の友人で10か国語を操るアメリカ人なのか台湾人なのかわからない男がいるのだが、彼曰く「お前の日本語はこれまであった誰よりも聞きにくい」そうである。世界的なお墨付きがついた活舌の悪さである。

学生のころであれば、テストで点数さえとれれば問題なかったので、親の注意など馬耳東風であった。紙のうえの言葉が評価のすべてだった。だが、社会にでるそうではない。活舌が悪いことは不利であることがわかる。

まず、相手に話している内容が伝わらない。

上司に企画案などを一通り説明したとする。同じ内容でも声のでかい先輩が説明すると一発で伝わるのに、私の声は届かない。しまいには「お前の案に乗るのはなんか不安だ」と言われる始末。要するに活舌が悪いと信頼されないのだ。なぜか。悩んだ末に私は気が付いた。

やる気が見えないのだ」

 

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やるきスイッチ。僕のはどこにあるんだろう/やる気スイッチグループ,  via Wikimedia Commons, Link

たしかに、担当者にやる気がない企画などうまくいくわけがない。

その日から私は声を大きくなるべくハキハキとしゃべることを心掛けて生活をすることとした。そして気が付いたのである。「ハキハキしゃべるのってめっちゃ疲れる」、と。

外国語に触れて思うこと

前回の記事にも書いたが私はなんちゃってトリリンガルである。日本語と英語とスペイン語をボソボソと話すことができる。その意味でなんちゃってである。おそらくプレゼン能力などを日本語運用能力の一つとするならば、私の日本語をこき下ろしたなんちゃってアメリカ人の方が日本語が上手と言えるだろう。

そんな彼の存在もあってか、活舌が悪いにも関わらず生意気にも外国語に触れる機会がそれなりにある人生を送ってきた。

そんな私が思うことは「外国語ってめっちゃハキハキしゃべる必要あるじゃん」ということである。一方で日本語はハキハキしゃべらなくても一応通じる言語であるともいえる。

 

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黒柳徹子さんくらいハキハキしたいものである

例えば「おなかが減った。おにぎり食べたい」と口を閉じず、子音をはっきり発音せずに日本語で発声してみよう。おそらく通じるはずである。

一方で英語で I'm hungry. I wanna eat Onigiri. と子音をぼかして発声したとて( ゚д゚)であろう。スペイン語で Tengo hambre. Quiero comer Onigiri. と子音ぼかしで発声したとて結果は同じであろう。通じないのだ。

ある意味では日本語は母音を重んずる言語であり、英語やスペイン語等のインド・ヨーロッパ語族の言語たちは子音を重んずる言語なのかもしれない*1。そしてその言語的特性故に、外国語を母語とする人たちはハキハキと話すようにみえるのだ。

古代日本語と現代日本

では、日本語は昔からボソボソ話すことを許す言語であったかというと、恐らくそうではない*2

 

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Why Japanese people!!/日本語,  via Wikimedia Commons, Link

 

飛鳥時代奈良時代に話されていた日本語のことを上代日本語という。まず母音だが、現代日本は「あ、い、う、え、お」の5母音であるのに対し、上代日本語は「い・え・お」の母音が2種類ずつ、「あ・い・い・う・え・え・お・お」の8母音存在していたと言われている。

では、子音はどうだったのか。使われる子音は現代日本語とは大きく変わらないが、いくつか違いがあったといわれている。

例えば h の音。現代の日本人である私たちは「歯磨き」と言うときには「はぁぁ」と吐息を漏らすようにして、「は」と発音する。一方、上代日本語では h にあたる音は p であり、「ぱみがき」と発音していたといわれている。言語オタクのなんちゃってアメリカ人曰く、p→f になり、f → h になり、今の日本語の音声に落ち着いたとのことである*3

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人間は楽をする生き物である。水が下に下に流れるように。

他にも s の音。現代の日本人は「鰆」と言うときには「すぅぅぅ」と歯の間に息をも流しながら、「あ」と母音をつけ「さ」と発音している。一方、上代日本語では s にあたる音は ts であり、「つぁわら」と発音してたと言われている。

どちらも現代日本語の方が気だるげに発音できる音であるのに対して、上代日本語ではどちらも力を込めて音を弾かないと発音できない。

つまり、私たち日本人は、より簡単に、より楽に発音できるように日本語を変えてきたのである。

 

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藤原不比等, ぷじわらのぷぴつぉ

「しんどい」のではなく「しんど」いのである

このような日本人の怠惰性は現代の日本語にも見ることができる。2022年春に関東の高校生に対して行われた「流行に関するアンケート調査」を見てみよう。

4位には、「きまずい」の「い」が脱落した「きまず」がランクインしている。5位には、「しんどい」の「い」が脱落した「しんど」がランクインしている。どちらも形容詞の語末の「い」が脱落したことばである。そもそも「しんど」の語源である「しんどい」も「しんろう(心労、または辛労)」が短縮した「しんど」を無理くり形容詞化したことばであり、ここにも短縮という日本人の怠惰性を見ることができる。

楽をすることは怠けること?

他にもLINEで「了解」と送るときには「り」と送ったり、「OK」と送るときには「おけ」と送ったりする。ビジネスの場面においても、「お世話になっております」などという定型文は「お」と入力すると変換できるように設定している人は少なくないだろう。

ここまで、このような言葉の短縮を日本人の怠惰性とよんできたが、別の見方をすれば、日本人は日本語をより簡単に、楽に使えることばとしてアップグレートしてきたということができるだろう。

 

おわりに

だとするならば、私が、活舌悪く日本語を話すことは、決してやる気がないわけでなく、より身体的負担を少なくするため、日本語をアップグレートしているということができるだろう*4

*1:骨まがり調べ

*2:「恐らく」や「かもしれない」を多用するのは根拠のなさの表れである

*3:実情を知っている人がいたらコメントしてほしい

*4:そんな訳ない。相手に言葉を届けることは大切なことである